「インプット」「アウトプット」(前)
携帯を見ていて、認知症の記事に目が止まりました。
この文中にありますが、アルツハイマー型認知症の進行の状態をよく、「初期」「中期」「後期」と表現しています。
この区分に、いささか疑問を感じるのです。
目の前の認知症という状態にある方々にレッテルを貼ってしまわないかと。
今回の「後期」の記事には
「記憶の障害が重篤」
「家族や知り合いの顔も忘れ」
「遠い過去の記憶も障害」
「自分のこともわからなく」
「言葉によるコミュニケーションが取れなく」
「尿失禁が見られたり」
「歩行が困難になったりして寝たきりの状態になります」
と、一般的によく説明されているキーワードが並べられていました。
確かにこのような状態に当てはまる方、時期があるとは思います。
しかし「皆がそうではない」ということです。
いや、「自分のことが分からなく」という表現はおかしいように思えるのですがどうでしょうか。
この記事のように「後期」は・・
などと説明されてしまうと、認知症が進んだ方への見方、捉え方が固定的になってしまわないかと不安になってしまいます。
「何もできない・分からない人」として見て、対応してしまうことがあるとすれば、この「後期」といった固定的な概念がとても危険なように思えてしまうのです。
確かに記憶の障害は進んでいきます。
だからといって、その方の「人間性」や「価値」が失われるものではありません。
その方の「人間性」や「価値」を失わせている・失ったとみている側が「問題あり」だと思うのです。
人は周りの様々な状況の「情報」を五感で感じ、脳の中に「インプット(取り込む)」します。
その情報を処理し、その情報に応じた行動を「アウトプット(表現)」します。
脳に病気がくっつき、色々な壊れ方をしていくのが認知症であれば、脳の壊れ方や壊れた部位によって「インプット」や「アウトプット」がゆがんでしまうのは仕方のないこと。
そしてその「ゆがんだアウトプット」状態に振り回されて、一方的に「おかしな人」にしてしまっているのは「周りの方」なのだと思います。
でも多くの認知症という状態にある方々は、「アウトプット」がとんちんかんであっても、「インプット」がうまくできないとは限らないと思うのです。
いや、「後期」といわれる状態にあっても、「インプット」能力はまだまだしっかりしている方々は多いと思います。
更に大切なことは、「インプット」「アウトプット」の「中間」にあるものだと思います。
それは、「その方そのもの」「心」「自我」などと表現できるものでしょう。
これは最期までなくならないものだと確信しています。
「アウトプット」情報だけに惑わされないようにしないといけないですね。
よく言われている
「ボケても心は生きている」
といった捉え方を大切にしたいものです。
(長くなったので次回に続きます)
滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治
このブログを打っている脇で、集会が行われていました。
知り合いのデイサービス利用者が「行方不明」という情報を受け、近所を捜索していた任意の「お助け同級生」グループです。
みつかってよかったね(保護されていました)
若い連中が力を寄せてくれる時代は心強いものです☆