主体者としての生活☆
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- 主体とはしゅたい‐せい【主体性】
自分の意志・判断で行動しようとする態度。
「―のない人」「―をもって仕事に取り組む」
[形動]自分の意志・判断に基づいて行動するさま。
「―な行動」
職員が「お茶を入れましょうか」と言うのはどうなのでしょうか?
テーブルの上(目にとまるところ)にお茶の道具が置いてあり、
「お茶はご自由に」というアナウンスがあれば
「飲みたくなったら飲む」でしょう(自分の事は自分で)。
あるいは一緒にいる人が「あなたも飲む」って言ってくれて
「飲む」って答えると一緒にいる人が入れてくれて
「飲む」またはその逆もあるでしょう(互いに助け合って)
職員が「飲みますか」と言って準備して入れる事があるとしたら、
それは「自分で」あるいは「互いに助け合って」できるようにする
専門職としての「能力に応じて」の支援ではなく、
単なる「求めに応じる」だけの家政婦業になってしまうのかもしれません。
主体者になって頂けるような仕掛け、声かけ工夫していきたいですね☆
滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治
選ばれし者?
先日、自分の夜勤中にお亡くなりになった方がありました。
前回、、、といってもだいぶ前ですが、その方も自分の夜勤中でした。
そんなこんなで、「井さん、選ばれましたね」とよく言われます。
もちろん、滝子の施設でお亡くなりになる方全員という訳ではありません。
いつかは、どこかで、誰かの前で亡くなるのが大多数だと思いますが、
果たしてそのタイミングを選ぶ事なんてできるのでしょうか?
選ぶ事ができるのであれば、「選ばれた」となるのでしょうが、
この真実は絶対に解き明かされない、神のみ知る秘密事ですよね。
なので、選ばれる選ばれないなんて考える必要もない事ですが、
そこから、その場面から何を感じ、何を学ぶかは大切な事なのかもしれませんね。
最後の瞬間に立ち会う事の意味は、分かる訳もありませんが、
「お疲れ様でした」「ありがとうございました」「どうか安らかに」
といった思いは、死亡が確定した後に感じた事です。
今回は「そろそろ」といったステージに入ってはいたものの、
この夜勤中にという心構えはしていないタイミングでしたので、
まずは戻ってこれる可能性を信じ、全力で心臓マッサージを続ける
事しか頭にありませんでした。
「戻って来られる事を信じて」
結果、心拍は再開する事なかったですが。
基本僕等の仕事は「生きている間に何ができるか」ですので、
振り返ると、足らない事だらけですが、
介護に「完全」「完成」はないと思いますので、
一つのご縁が「完結」したという事実があるのみです。
残ったのは感謝しかありません。
「自分なんかでごめんなさい。でもありがとうございました」
介護は最後の場面に立ち会う事が許される、
尊い仕事なんだと改めて感じました。
ご冥福をお祈りいたします。
滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治
この日の、日の出の場面です。
「鳥が見送りにきたんだ」
と直感的に感じた印象的な朝でした。