「大逆転」のススメ Vol.24

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 人は落差に弱い

 

通り一辺倒ではうまくいかなかったり、行動に結びつかないようなことでも、

職員が響き合わせの技を集団的に上手に使うことで、

相手にはぐっと響き、響き合い、つながっていくこともたくさんある。

 

人はおもろいもんで、嫌なことがあったり、落ち込んだあとに優しく声を

かけられると、普段は気にもかけていない人や嫌いだとまで思っていたような人でも、

ものすごく心に響き、恋にさえ落ちるときもあるやろ。

 

婆さんたちも同じで、群れのボスである僕から「痛がってばかりいて、

ご飯を食べんかったから体力が落ちて、よけい痛くなるで」と強く言われた後に、

職員から「だいじょうぶ、ご飯準備したから一緒に食べよう」って、

優しく誘われたら、気持ちをとりなおして応えようとする。

 

僕の強い一言がなかったら、だれに言われても食べんかったかもしれん。

いや、食べないことを僕らは知ってるから、職員が集団的にこの落差を活用するわけや、

 

~中略~

 

もひとつよく言われるのが

「みんなには内緒やで、あんただけにしてあげることやしな」

というヤツ。

どうも人はこの手の誘いに弱いやんか。

特別扱いという言葉の響きだけでうれしくなったり、やる気になったりするのは、

だれにでもあることやろ。

僕も師匠とよばれて有頂天になってしゃべってるから一緒やわな。

 

ただし、技の前に人と人との関係がないと、どんな術も生きへんからな。

 

「大逆転の痴呆ケア」 和田行男著 中央法規出版 P184~185より抜粋。

 

支援やケアがうまくいかない時、落差の活用、響き合わせの技を

集団的に使えてないなぁ~ とこの記事を読んで反省反省。

 

後半の特別扱いはしょっちゅう使うけど、それを他のスタッフと

連携して意図的に落差を使ってアプローチができたら、

本人さんにも必要な事できるし、職員間も「やったね!」と

連携や関係が深まる。

う~ん 何か一つのケースに対して、職員集団落差活用アプローチを

行う響き合わせができるチームや連携ってきっとおもしろいし、

大切だよね☆ 作戦会議をせねば・・・

 

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

 

 

2019年03月14日 Category:大逆転のススメ

「大逆転」のススメ Vol.23

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【自立・支援・代行・管理】

大逆転の痴呆ケア 和田行男著 中央法規出版 P196~抜粋

 

1・自立

自分のことが自分でできる、他者や周りの環境との関係性も作ることができる状態を「自立」とする。必ずしも完結した状態ではないが「大したことではない」と判断した場合もこれに含んでる。

 

2・支援

自分でできるわけやないけど、職員が代りにやってしまわなあかん状態でもない。

つまり何らかの支援が必要な状態を「支援」にする。

同じ婆さんでも日によって時間によって気分によって天候によって違う。

同じ婆さんに、同じ時間・同じ声かけをしても、声をかけた職員によって響き方はまったく違うこともあり、「支援」は非常にやっかいな状態やな。

 

3・代行

支援をしても婆さん自身ではできないことを、本人に成り代わってだれかがやってあげる必要がある状態を「代行」とする。

「自分でできる」から「支援を要する」状態になり、やがて「代行を要する」状態になるんやけど、痴呆という状態にある人は、最初から「代行されてしまう」ことが多いのが現実やな。

単純な「代行」にならないように「自分の生活行為は自分でする」という当たり前のことを大事にする視点で見極めんと、専門職がかかわったばかりに婆さんたちがダメになったと言われてまうで。

 

4・管理

管理とは、自分の力でできようができまいが、職員側で「管理」してしまわなあかん事柄やな。たとえば薬に関することでいうと、その人自身が内服や薬の管理を自立してできたとしても、共同生活場面ではその人の薬が他者に渡ってしまうことも考えられる。また、内服完了まで見届けなければ、本当に薬を飲んだかどうかを判別することもできひんわけで、こうした事柄は管理せざるを得ない。

 

この「点」は自立やけど、この「点」は支援が必要、あるいは危険が高い「点」は管理しなあかんというように、ひとりひとりの状態に応じて必要な支援策がいるということになるし、逆にいうと必要な支援さえあればいいともいえるわけや。

 

以上

 

私たちは利用者・入居者の有する能力や状態を、生活の中のあらゆる行為や関わりの中で、この4つの視点に分解して見極め、必要なところに必要な関わりをピンポイントでするという事を改めてチーム全体で意識・見直していかねばならないと、今年を振り返って思いました。 チーム力を上げるためにも、この視点を大切にしていきたいものですね。

 

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

2018年12月27日 Category:大逆転のススメ

「大逆転」のススメ Vol.22

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「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 中央法規出版 P69~70より一部抜粋

 

【もの忘れはステキな能力】

人が生きていく中で記憶は不可欠だが、その逆もある。

憶えているばっかりに、辛さや哀しさを引きずってしまうことは、だれもが経験することである。

ものごとを忘れるというのは、マイナスばかりではない。

いや、もの忘れは、生きていくために不可欠な能力として備わっているようにも思える。

もの忘れを笑い飛ばせる風が婆さんの周りに吹いていれば、もの忘れはステキな能力に思えてくるのである。

 

 

と、あります。

職員が仕事できるかどうかですね~

笑いに変え、笑いで吹き飛ばせる場面が増えるといいですね☆

 

 本日焦っている自分を見かけた入居者さんが

「急いでどこいくの?」と。

 

「忘れ物したんですよ。最近物忘れが多くて(テヘㇸ)」

「そりゃ私達と一緒。先生大丈夫だわ。アハハ(他の入居者さんも爆笑)」

 

 

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

 

いよいよ波の女でも「オレンジカフェ」を実施すべく企画進行中~☆

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忘れても間違えても、受け止め・理解される地域を目指していきたいですね。

(自分のためでもありますね 笑)

2017年10月08日 Category:大逆転のススメ

「大逆転」のススメ Vol.21

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「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 中央法規出版p246~より一部抜粋

 

 

「はき違い型福祉から本流福祉へ」

 

福祉とは「人々が幸福に暮らす生活環境」とある。

お年寄りにご飯を作らせるなんてしのびない。

お年寄りには穏やかでゆったりとした老後を送っていただきたいなど・・。

何でもしてあげることが婆さんたちにとっての幸福であると、はき違えている人が多い。

その結果豪華絢爛リゾートホテル型特養や料亭型グループホームができあがってしまう。

~中略~

「幸福」の基準価値は人それぞれであると思うが、多くの人は最後までピンピン元気で自分のことは自分で行い、

ポックリと寿命を全うすることを願っているのではいか。

だとしたら、最後まで自分が生きていくために必要なことは、自分の力で行えるように、

あるいは人と人が互いに助け合って行えるように、どうしてもできなくなったときには、

それを代わりに行ってあげる支援(自助・互助・公助)が福祉の本流ではないか。

 

 

たまたま開いたページがこの内容でした。

この本が世の中に送り出され、どれだけの時間が過ぎたのでしょう。

この国の介護は、福祉はどこに向かっているのでしょうか。。。

まだまだ「はき違い型福祉」がこの国の主流を占めている感はありますが、

「人が生きる姿」をめざし、取戻し・引出していけたらと改めて思いました。

 

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

2017年10月04日 Category:大逆転のススメ

「大逆転」のススメ Vol.20

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シロクマがこんな暑い地域にいていいのだろうか?

 

先日動物園に行った時に、こういっている人がいた。↓↓

「なんか囲われてかわいそう・・」

 

そんな会話を聞いていて、ふと和田行男のコメントや、「大逆転の痴呆けあP244~」のフレーズが頭をよぎりました。

 

 

<動物園生活でいいのか!>

保護のもと囲われ、餌を与えられ、時には洗浄してもらう動物園。

最近は擬似ジャングルのような設えにしてもらっています。

 動物園の動物たちは、他の動物からの脅威もなく餌に困ることもなく「幸せね」って言う人もいますが、動物本来の「生きる姿」はなくなっています。

 利用者様たちの施設も同じようなもの。

人間として主体性をもって能動的に生きることを支援するのではなく、保護の対象として受動的に生きさせてきました

その結果、「人が生きる姿」からはほど遠い姿にさせられてきたわけです。

誰もがそんな姿を願っているわけではないにもかかわらずです。

 

 

大逆転の痴呆けあより一部抜粋

~中略~

もちろん痴呆という状態にある人がジャングル(一般社会)でひとりでは生きていけないこは分かっているが、だからといって、いきなり動物園のように保護してしまっては、人の姿を失ってしまうのは当たり前のこと。

いくら住居化をはかり、家庭歴な雰囲気を演出しても、一番肝心な「自分の力を使って生きていくための手立てをとる」という生活の主体性を奪ってしまっては、活動的に生きることはできなくなってしまう。

 

 

 

まだまだ動物園に毛がはえた程度?サファリパーク?からなかなか抜け出せていないのかもしれませんが、認知症になってとしても「人として生きる姿」を追求していきたいものです。

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

 

 

 

 

2016年07月01日 Category:大逆転のススメ

「大逆転」のススメ Vol.19

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「大逆転の痴呆ケア」 和田行男著 中央法規出版 P138,139より一部抜粋

 

ボランティア・・・・・・・・生きるを膨らませるために

「ボランティアは何のために?」

何でもっとボランティアを使わないかとよく聞かれる。

そのたびに、

「そもそもボランティアとはどういうものなのか」

「何のためのボランティアなのか」

と疑問をもっていた。

僕なりに施設側がボランティアを必要とする理由を大きく分けてみると、

「人手の補完型」

「施設の体裁型」

「入居者のため型」

「社会的役割型」

という4つのタイプがあると思う。

 

~中略~

 

ボランティアとは、まず何かを提供した人がいて、何かを必要とする人がいて始まる。

それがつながり、

「やらせてもらえますか」

「お願いしていいですか」

と合意形成した上で行われる行為だ。

なおかつそれは無償の上に成り立つ。

 

 

このブログ内の「大逆転のススメ Vol.9」でもボランティアに触れさせてもらいました。

 

写真は昨日、区内の社会福祉協議会の中で行われた催しの様子です。

区内のボランティアの方々の紹介と、ボランティアに来てほしい事業所の集まりであります。

区内のボランティア連絡協議会に登録されている団体が18。(されていない団体もあると思います)

当日の紹介・発表は14グループ

こだわりと思い入れと自信によるサークルの熱気はなかなかのものです。

 

この会へ参加した目的ですが、建前的には、

・地域内の活動の様子

・社会福祉協議会とのつながり

・人間関係作り

というような聞こえのいい目的のようなもので参加したのは事実ですが・・・

 

毎日毎日外に出続ける入居者の付き添いにより、その他の方々への支援・介護が行き届いていない現状をなんとかしたいと思っていたところに、昨日の会の案内がありました。

ついつい大逆転内で「論外」と書かれている「人手の補完型」を探しにきたのが本音です。

背に腹はかえられない・・(笑)

 

しかし、ずっと見たり聞いたり話したりしているうちに、「滝子の職員が地域や必要としている人のボランティアに参加できないか」「入居者・利用者で地域のために活動できる事はないか」と視点が変わってしまいました。

一部の職員は地域の活動に参加している人もいるので、そういう情報を統合して「滝子ボラチーム」を作りたいなぁと思います。

 

現状のボランティアとの関わりは、このブログ内「大逆転のススメ Vol.9」に書かれているとおりです。

街の全ての関わり、環境に「感謝」です。

 

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

 

滝子の怪しい風景 続き・・

「お姫様だっこの男たち」

 

床からの立ち上がり移乗テクニック磨き会の様子です。

次の日には筋肉痛と間接痛になっていました。

「だめだこりゃ」(笑)

 

 

2015年03月01日 Category:スタッフ日誌,大逆転のススメ

「大逆転」のススメ Vol.18

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「大逆転の痴呆ケア」 和田行男著 中央法規出版 P181、182より一部抜粋

 

■変化自在のかかわり

婆さんたちのことを知り、婆さんたちに伝え、行動につながるようにするにはどうするか。

それには、あの手この手だけでは足りず、あの足この足、あの声この声、自分が持ち合わせた響き合わせの術を駆使することが必要やな。

なんせ婆さんたちは百戦錬磨やし、性格や人生経験+痴呆状態!だから怖いものなしやろ。

世間では通じることもまったく通じないことだらけやし、施設では相手が複数で、時々・日々変わるから難しいんや。

 

こんな婆さんたちを相手に仕事をしてるんやから、自分の中に自分ひとりしかいないとなると応じることができなくなるのは当たり前やわな。

自分の中にたくさんの自分をもって、それを変化自在に操れないとプロにはなれへん。

また、それだけやなく、あらゆるものを味方につけて攻め落とすようにせんと、婆さんの攻撃の前に無残に玉砕するだけやで。

 

~中略~

 

婆さんと職員との関係っていうのは、固定的でない場合が多々ある。

婆さんは僕に、医者、この子、かつて知っていたいた人、教師、恋人、マイ・ダーリンなど、さまざまな配役を与える(笑)

逆にいえば、こっちもそれに乗っかって変化自在に関係性をつくっていくから、婆さんにとってみれば理解しやすく、事態を掌握しやすい。

 

たとえば、指示的なことが必要なときは、社長や医者、管理者などに。

癒すときには、恋人、男、この子であったり。

楽しんでもらうときには、芸者になったり、歌手になったり。

いつも和田行男は1人やなく、なかなか忙しいわけや。

 

 

と書かれています。

私達はプロの介護職として、変化自在を活用しているか?

意識的・意図的に役を演じているか?

自分の中にたくさんの自分をもてるように磨いているか?

そのために色々なものを見たり・聞いたり・感じたり・経験しているだろうか?

 

百戦錬磨の方々を支え・さりげなくリードしていくためには、業務的で、固定的で、ワンパターンで、一方的な自分では難しいと思います。

入居者・利用者の「生きる姿」は、職員との響き合わせの結果によるものが多いのです。

 

職員Aさんが関わるのと、職員Bさんが関わるのでは、相手の発語、表情、行動が異なっているということはいくらでも起こります。

それは相手とうまく響き合わせができる「自分づくり」ができる職員と、自分のペースでしか関われない職員との違いだったりします。

 

目の前の要介護の方々は、私達介護職との関わりによって変化し続けます。

「うまくいかない」「できない」理由は、自分の関わり方やもっていき方、響き合わせの足りなさがそうさせていると気づき、「変化する自分」に挑んでいけると素敵ですね。

 

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

 

そのためにもいっぱいいろんな事を経験しようよ☆

いろいろなところに行ったり。

いろいろなことをやったり。

いろいろなことを見たり・聞いたり・読んだり。

いろいろな人に合ったり、話したり。

無駄なことは何ひとつありません。

自分の中の新しい自分をどんどん積み上げていきませんか。

そして一生懸命仕事してみてはいかがでしょうか。

 

2015年02月01日 Category:大逆転のススメ

「大逆転」のススメ Vol.17

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大逆転の痴呆ケア」 和田行男著 中央法規出版 P221より1部抜粋

 

「してあげる」から「して・あげる」へ

 

~中略~

何かを「してあげる」というのは大切やけど、専門職が婆さんを「してあげる」存在にとどめたら、婆さんは「してもらう」存在にとどまり、やがては人が生きる姿からほど遠い姿にしてしまうやろな。

 

自分のことが自分でできるように「して・あげる」、社会と切り離されないように「して・あげる」など、自分の力だけでは何ともできん婆さんたちに手を差し伸べる「して・あげる」支援はとっても大切や。

要するに、「してあげる」と「して・あげる」をはき違えないようにしんとな。

 

自分でできるように「して」「(引き)上げる」ということが仕事。

~続く~

 

とあります。

「してあげる」方が、親切かつ早い。

こんな感覚は専門職としてどうなのか?

その関わりの先はどうなるのか?

「考える」機会がない。

「動く」機会がない。

そして「依存的」「受動的」になっていく。

 

最初は「してもらえる」ことにより「ありがとう」と言われるかも知れない。

しかしいつかは「してもらってばかりで」、迷惑かけて「ごめんね」に変わるでしょう。

「ごめんね」と言わせるために私たちは仕事をしているのではありません。

「生かされている」と感じさせるために仕事をしているのではありません。

 

 

「してあげる」を「仕事」と勘違いしていないだろうか?

そのアプローチの先に、目の前の方の能力はどうなっていくのか?

 

「能力を奪う」「能力を下げる」お手伝い役にならないようにしたいものです。

「人」は自分も目の前の方も、「自分の力を使って自分の人生を生きる」生き物です。

有する能力を発揮しながら。

そして有する能力に応じるのが私達の仕事です。

皆で再確認していきませんか?

 

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

 

2014年12月04日 Category:大逆転のススメ

「大逆転」のススメ Vol.16

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「大逆転の痴呆ケア」 和田行男著 中央法規出版 P83より一部抜粋

 

支援は特別なことではなく普通のこと

 

確かに、「痴呆老人が普通の人と同じだなんて、乱暴で何も知らない人間の言うことである」なんて言われたら、まったくそのとおりだと答える。

 

しかし、知識ある人の「痴呆老人」というとらえ方が、婆さんたちを「普通ではない生活」へと追いやり、人が生きる姿からかけ離れた「普通ではない人」にしまったのではないか。

そうだとしたら、そのほうがよっぽど乱暴で無知である。

 

~中略~

 

支援する側には特別な知識や技術を要する専門性が必要になる。

だからといって、専門性だけで支援できるわけではないことをも知るべきだ。

なぜなら婆さんたちは、痴呆である前に「人」だからである。

 

と記されています。

「普通の生活を送る姿」を取り戻すことに繋げれてこその専門性ではないでしょうか。

そもそも「普通の生活」とは何なのかを、自分自身を振り返り理解することが大切だと思うのです。

もちろん十人十色なので、自分の中で「普通」だと思っていることを、目の前の認知症という状態にある方に当てはめていくことは危険であります。

 

でもそこには「人として生きる姿」としての共通項の行為があるのだと思います。

たとえば誰だって家から出る前には身だしなみ(顔を洗ったり、歯をみがいたり、髪を整えたりするでしょうし、服のセレクトも行っていることでしょう。

もっと行為をシンプルにしていくと、「自分のことを自分でする」ということが普通の暮らしの底辺にあるのだと思います。

 

そのことを目の前の方ができないのであれば、自分達がくっつきできるようにする、または補うということであるのだと思います。

 

できない、わからないと決め付けたり、そのままで大丈夫だろうと手を抜いたり、時間がない、人手が足りないと言い訳を並べて、能力を発揮する機会を作らない、場合によっては、身だしなみさえ整えられないような現状で「普通のこと」を語ることはおかしなことであると気づかなければなりませんね。

 

「普通のこと」を丁寧に行うー

 

これは支援の土台として、とても大切な行為であり方向性であり、そこに気づくセンスが必要なのだと思います。 大切にしていきたいものですね。

 

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

 

祭りがあれば寄りたくなる・・・これも普通の暮らしですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年07月26日 Category:大逆転のススメ

「大逆転」のススメ Vol.15

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大逆転の痴呆ケア 和田行男著 中央法規出版 P212,213より一部抜粋

 

こもれびが始まったころ、僕は婆さんの自発的な動きを見極めるために、朝の台所カウンターに大根や白菜など食材を並べ、目につきやすいところに包丁や鍋などを置いておくこともやってた。

すると、起きてリビングに来た婆さんが2人以上になると、互いに顔を見合すように、「ご飯はどうするのかしら」「わからないよ」と言いながらも、思うままに大根を切り始め、「鍋に火を入れて」なんていう具合に進んでいったんや。

 

また、朝早くだれも起きていないときに、リビングのテーブルを隅の方に片付けて、広くなったところにバケツと雑巾を置いといたんや。

すると置きてきた人から、箒を手にして掃き始め、バケツに水を汲んで拭き掃除を始めるわけや。

 

それ以外にも、洗濯物を干して乾いていることさえ確認して放っておけば取り込むし、テーブルの上に乾いた洗濯物を積んで置くだけで、何も声をかけなくても、ひとりであるいは何人かでたたむわけや。

~中略~

婆さんが自発的に行動できるように支援していくことは、「やらせる」こととは意味がまったく違う(続く)

 

 

介護保険や各介護保険事業の基本方針に「自立した日常生活を営むことができるように」という文言が示されています。

「自立した」とは「主体的に」とも置き換えられると思います。

「やらせる」こととは違うということです。

 

どれだけ丁寧にお願いしたとしても、そこには「お願いする側」と「お願いされた側」に分かれます。

「主体的」とは「自分の意志や判断に基づき、自分で決め、自分で行動する」ことではないでしょうか。

そのような姿を引き出すために、どうやったらそのようなことにいきつくかを考え、能力を見極めた上で、その能力が発揮されやすい仕掛けやセッティングを行うことが大切だと思います。

 

「自分の力を使って生きる」という事は、「やっている姿」を目指すのではなく、そこへの「もってき方」の方が大切な事ではないでしょうか。

 

日常生活行為全般の中に様々な仕掛けを行い、「やろうかな」という気持ちを引き出すきっかけ作りをしたいものですね。

その繰り返しや積み上げが、よりいっそう主体性を高めていくのだと思います。

 

滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治

 

 

 

 

2014年04月29日 Category:大逆転のススメ