「大逆転」のススメ Vol.16
「大逆転の痴呆ケア」 和田行男著 中央法規出版 P83より一部抜粋
支援は特別なことではなく普通のこと
確かに、「痴呆老人が普通の人と同じだなんて、乱暴で何も知らない人間の言うことである」なんて言われたら、まったくそのとおりだと答える。
しかし、知識ある人の「痴呆老人」というとらえ方が、婆さんたちを「普通ではない生活」へと追いやり、人が生きる姿からかけ離れた「普通ではない人」にしまったのではないか。
そうだとしたら、そのほうがよっぽど乱暴で無知である。
~中略~
支援する側には特別な知識や技術を要する専門性が必要になる。
だからといって、専門性だけで支援できるわけではないことをも知るべきだ。
なぜなら婆さんたちは、痴呆である前に「人」だからである。
と記されています。
「普通の生活を送る姿」を取り戻すことに繋げれてこその専門性ではないでしょうか。
そもそも「普通の生活」とは何なのかを、自分自身を振り返り理解することが大切だと思うのです。
もちろん十人十色なので、自分の中で「普通」だと思っていることを、目の前の認知症という状態にある方に当てはめていくことは危険であります。
でもそこには「人として生きる姿」としての共通項の行為があるのだと思います。
たとえば誰だって家から出る前には身だしなみ(顔を洗ったり、歯をみがいたり、髪を整えたりするでしょうし、服のセレクトも行っていることでしょう。
もっと行為をシンプルにしていくと、「自分のことを自分でする」ということが普通の暮らしの底辺にあるのだと思います。
そのことを目の前の方ができないのであれば、自分達がくっつきできるようにする、または補うということであるのだと思います。
できない、わからないと決め付けたり、そのままで大丈夫だろうと手を抜いたり、時間がない、人手が足りないと言い訳を並べて、能力を発揮する機会を作らない、場合によっては、身だしなみさえ整えられないような現状で「普通のこと」を語ることはおかしなことであると気づかなければなりませんね。
「普通のこと」を丁寧に行うー
これは支援の土台として、とても大切な行為であり方向性であり、そこに気づくセンスが必要なのだと思います。 大切にしていきたいものですね。
滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治
祭りがあれば寄りたくなる・・・これも普通の暮らしですね。