「大逆転」のススメ Vol.14
「笑って終わる」
~中略~
婆さんが嫌がって怒るのを承知の上で、脱がして、拭いて、着せてをせなあかん。
ここで大事なのが、決して婆さんが怒ったまま職員が離れたらあかん。
怒らせたまま婆さんから離れたら、嫌なことをされたという出来事は忘れるかもしれんけど、嫌なことをされた気持ちは積もっていくやろ。
だからどんなに怒らせても、笑って別れられるように、僕がトイレの中でひとり芝居をして婆さんに見てもらったり、おかしな歌をうたったり・・・。
あの手この手を駆使して、怒りがおさまるだけじゃなく笑えるまでかかわるわけや。
大逆転の痴呆ケア 和田行男著 中央法規出版 P179より一部抜粋
先日、和田の研修会で同様の話をされていた。
「嫌な事をした後は、感情、記憶の一番上にいい思い、心地よさを積む事が大切やで」
「風呂やトイレの中で一番嬉しい事をする」
「いざこざは止めれなくても、その後に心地よさという感情をのせる」等々
これは現場で結構できていない、意識できていない事ではないか。
自分もできたりできていなかったり・・・忘れていたという事でもあります。
という事で、入浴に対していい感情をもたれていない利用者に早速実行。
入浴中は騒ぐ事はなかったものの、「なんにも着ていない・・」「好きにすればいいじゃないの・・」等々諦めともとれる言動がみられ、終始目を閉じ無言の入浴。
しかし服を着終わって入浴が終わった後に、「お疲れ様。終わりましたよ。いやな思いをさせてごめんね」とハグをさせて頂いた。(この方にとっては一番喜ばれると想像でますし、いつも求められるので・・笑)
すると、「ありがとね。嬉しい」と笑顔。
この繰り返しが、次の入浴のお誘いの流れをスムーズにするコツなのだと思います。
その場の感情の積み重ねが先の介護にも繋がっていくのですね。
入浴に限らずトイレ誘導もそうですし、外出支援もそうです。
このような細かい積み上げが、いい人間関係の構築の基になると思いますし、先々の介護をさせて頂く時のスムーズさと連動する事になっていくのでしょう。
対人援助の奥は深いですね。
滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治
「車椅子+自転車」
スピーディー且つ、アクティブな外出支援器具ですね~
「大逆転」のススメ Vol.13
本日の名古屋の午前は秋晴れ。
朝7時に出勤し、小規模多機能型居宅介護「クラブ滝子」利用者のお迎えと、その後の訪問を済ませる。
10時前に昼食食材の買い出し組が出た。
リビングには7名の利用者が残っている。
さてどうするか・・・
風は少なく、日が当たっている所はポカポカ。
天気が崩れたり、寒くなる日も近い。
残りの利用者に問いかける。
「イチョウの木が見事な黄色に染まっていますよ。秋を感じに散歩行きますか?」
「行こか」と反応される方が多くて良かった。
もちろん、「行ってみよーかな」と思って頂けるような雰囲気で問いかける事が大切です。
ワクワク感みたいなものの演出で「そそらせる」訳です。
それに関連して、「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 中央法規出版の中から一部抜粋 (P223~224)
~
出勤してから退勤するまで その日勤務する職員と婆さんたちが響き合わせをして、今をどう過ごすか、今日1日をどう過ごすか決め合えばいい。
天気がいいから出歩く、悪ければ掃除でもする、腹が減ったら飯にする。
洗濯物がたまろうが部屋が汚れていようが、その日のうちにできないことがあったっていい。
まさに陽を見て、日に合わせて、つまり日和見で婆さんたちと語り合いながらその日を過ごして、合議でいけばいいわけや。
それが人間的やと思うし、がんじがらめに縛られた毎日やっらた生きているとはいえんわな。
~
秋も深まり冬が近づいてきましたね。(名古屋地区)
「きれいだね~」
買い物に、散策。
空っぽに近いリビングです。(お一人は体調の都合で残ってみえます)
滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治
「大逆転」のススメ Vol.12
ブログのネタが思いつかず、大逆転を手に取り、ぱっと開いてみたらこの項目が出た。
「法にみるグループホームの理念」
介護保険法では、痴呆対応型共同生活介護の基本方針について、こう書かれている。
「・・・共同生活住居において、家庭的な環境の下で入浴・排泄・食事等の介護その他の日常生活上の世話及び機能訓練w行うことにより、利用者がその有する能力に応じ、自立した日常生活を営むことができるようにするものでなければならない」と。
つまり、介護保険の指定事業を受けたグループホームは、「僕の考えるグループホーム」「私の考えるグループホーム」というように、自分の考えや裁量で運営するものではない。
この基本方針を含む基準を満たして事業指定を受け、公金を使って営業しているという認識を忘れてはいけない。
~中略~
いずれにしても、グループホームや特養を、「婆さんがもてる力に応じて自立した日常生活を営む場」と位置づけたことの意味は大きい。
介護を一方的・画一的に受ける場ではなく、それぞれの状態に合わせて生活を営む場(住まい)であると示したことは革命的でさえある。
これを突き詰めていけば、特養でも、メシ作りなんて当たり前のこととして、婆さん自身が行うことができるようになるだろう。
「大逆転の痴呆ケア」 和田行男著 中法法規出版 P144、P145より一部抜粋
私達専門職がどのような方向性をもって支援していくのか。
その根拠がここにある。
また各事業所の理念も、この法と法の精神に基づき、関連付けて策定されるべきではないか。
そして、その事業所の理念を実行する・しようとする職員が集まる必要がある。
私達の向かう方向性が職員間で共有され、語られていくこともチームが育つ大切な要素となる。
今一度、法と施設理念をご自身の組織の中で確認しながら、日本国中で皆が同じ方向を目指し、その実践の中で認知症になっても街の中でたくましく暮らす姿が増えていってほしいと思っています。
ちなみに滝子の入居者が、自転車を持って施設へ戻ってきました。
警察から所有者へ連絡が行き、「いらない」ということで、役所が回収するまで意図的に放置することとなりました。
たくましすぎる・・・
滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治
「大逆転」のススメ Vol.11
頭は「連れてきてもらった」、でも体は「自分で来た」
中略~意図的に全員で外出するときも、ひとりや少人数で外出するときも、職員と一緒にバスや電車など公共交通機関で外出するようにした。
しかし、その理由は、そのほうが「普通の外出らしい」からということではない。
確かに車で行くのは楽でいい。
ドア・ツー・ドアで快適でもある。
荷物を背負わなくてもいいし、何かあったときに対応もしやすい。
でも、車での移動は、車中にいる婆さんと職員の関係しか存在しないし、「連れていってもらう」ということ自体、身体的にも精神的にも受動的になりやすい。
行きたいと思ったところへ行くのは能動的行動である。
自動販売機で切符を買い、自動改札機を脅えながらくぐり抜け、何十段もある駅の階段を上り下りし、自分の足で歩み、重い荷物を背負い、さまざま障害を乗り越え、多くの人々に接し、空気を感じながららの外出。
いくら職員が付き添っていても、頼れるものは自分でしかなく、まさに戦場である。
「こんないいところへ連れてきてもらってうれしい」
言葉こそ精神的には受身だが、身体的にはまぎれもなく「自分で来た」という体感のある主体的な外出である。
電車やバスを使って外出することは特別なことではなく、人並みの姿である。
「大逆転の痴呆ケア」 和田行男著 中央法規出版 P54~55より一部抜粋
5月最終の好天日、滝子の施設では突然外出することとなった。
小規模多機能型居宅介護より6名の利用者と2名のスタッフ。
グループホーム1階より3名の入居者と1名のスタッフ。
グループホーム2階より4名の入居者と2名のスタッフ。
総勢18名(車椅子対応3名含む)の外出部隊である。
市バスを使って「鶴舞公園」のあじさい祭りへ行くことになったのですが、一度に乗り込むのは時間もかかるし、一般の方々もみえ、乗り切れないとうことで2台の市バスに分かれて向かった。
和田の言う、体感のある主体的で能動的な行為を意識しての外出である。
多くの市民の方との接点、おひさまや木や風など、街の様々な環境を自らの体で感じて頂く大切な時間となりました。
1、2、3階の利用者や入居者間の助け合い、声のかけあいも多く見られました。
往復2時間半程の外出でありましたが、施設へ帰り着くとある利用者がぼそっと言われました。
「しんどかったけど、ここ(施設)でごそごぞするより、今日みたいな方が楽しいわね」と。
それも息を切らしながら。
自分の体を使い、公共交通機関を使っての外出。
まさに人並みの姿である。
ちなみに利用者の1名は・・・・
「今日はご苦労さま。気をつけてお帰り下さい」と言われ、施設近くのバス停で降りることができませんでした。
多くの市民の方々も乗ってみえたので、即座に対応。
担当スタッフをつけ、お金を渡し、「降りれるようになるまでのんびり行ってこやぁ」と。
結果、終点まで行かれました(笑)
外出はハラハラ・ドキドキ・キラキラ☆の連続である。
「あら 綺麗なちょうちょ。 踏まれないようにどこかに移さなきゃ」
Published by 滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治
「大逆転」のススメ Vol.10
『汚くても死にはしないが・・・・・・・』
掃除をしなくたって生きていける。
汚くたって死にはしない。
だから、婆さんたちが掃除をしようという気持ちにまで職員がもっていくのは難しい。
食らうために必要な調理・買物のようにはいかないのだ。
しかも、婆さん自身がちょっとでも心身の状態が悪いと感じていると、なおさら難しい。
掃除は生きていくために必要不可欠なことではないが、その分だけ行う機会が少なく、「やらなくなるとやれなくなる」ことにつながりやすいことを知っておくべきだ。
それは、洗濯も、整理整頓も、入浴も、おしゃれも同じ。
そこが飯を食うこととは違うのだ。
「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 中央法規出版 P31~32より抜粋
『生活に無縁の「プログラム」とは違う』
僕らは専門職であり、その人の「生活力」を維持・回復することを目指している。
可能な限り長く自立した生活を営むことができるように支援することを大切にしているだけなのである。
決してできないことを無理にさせたり、生活に不要な特殊なことをやらせているのではない。
また、それが目的でもない。
むしろそれを言うのなら、婆さんたちが自分の力を使って生きる姿を奪ってしまって、レクリエーション、アクティビティプログラム、リハビリテーションなどの美語のもと、生活とは無縁の決められたプログラムを一方的にやらせているほうがむごいことであり、虐待ではないか。
「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 中央法規出版 P33~34より一部抜粋
今日は3階小規模勤務でした。
和田さんの言う通り、掃除をしようという気持ちにまで職員がもっていくのは難しかった。
滝子の施設がオープンした頃は椅子をどけたり、テーブルに差し込む程度で掃除を促していたのですが、どうも入居者の気持ちを動かすのが弱い。
そこである時から見た目に掃除をしている感を出すために、掃除道具を用意するだけではなく、テーブルの上に椅子を上げ、そのテーブルごとリビングの隅に寄せ広いスペースを作り掃除をするようにした。
するとどうだろう・・・参加率、参加意欲が格段に向上するではありませんか。
それから、掃除をする時は声かけや、道具を目にとまるように置いておいたりすることに加え、より視覚的に「掃除をしますよ」と訴え掛ける
大掃除もどきのテーブル移動や椅子上げ方式を心がけるようにしています。
これは学生時代の教室の掃除時間をイメージして頂ければ分かりやすいと思います。
掃除をする以外の何者でもないという時間、空間、意識のもっていき方です。
で、本日はあまり派手に掃除をすることのなかった3階でいざトライ!!
3階の小規模多機能型居宅介護は1、2階のグループホームと違って、リビングの横に大きな食事テーブルを置ける畳スペースがあるので、椅子もテーブルも全部リビングから出してしまい、何もない床スペースで掃除開始~!!
掃き掃除、掃除機かけ、床拭きと分担すると、皆ホウキで掃く掃く、雑巾で床を拭く拭く。
皆で取り組むと、短時間で綺麗になってしまったので、その勢いで次は廊下に皆でなだれ込む。
みよ。この躍動感、一体感!笑
なかなか群れにならないと感じている(主観)小規模の利用者さん達が、施設の中でこれほどの動きを見せたのは初?久しぶり?のことではなかっただろうか。
感情の起伏がある利用者さんも自ら「ありがとうね~」「こんなに綺麗にしてもらって」(自分の家だと思っていらっしゃるようだ)と笑顔。
そして声かけに快く反応され掃除に参加。
掃除に疲れ座り出した方、歩行不安定で立っての掃除が難しい方は、別の仕事がやってきます。
椅子の座面、背もたれの消毒拭き掃除です。
次から次へと、全ての椅子が代わる代わる運ばれてきます。
そして、食事テーブル、椅子を元の位置にセットし直した後は、テーブルやクロスの消毒拭き掃除です。
清掃終了後は皆でスイカタイム!笑
皆で目的を共有し、共に活動した後のスイカは美味しいんだなぁ~
掃除は、掃除スペースを作り出し、そこに掃除をやりませんかぁ~と勢いのある風を吹かせ、皆で声を掛け合いながら行っていると自然と一体感が芽生えてくるのではないかと思っています。
達成感や心地よい?疲労感。一体感。掃除は宝です☆
掃除は派手に!が分かりやすいですね☆
「年末の大掃除だね」と利用者の声にこう返す。
「いえいえ、これは毎日やっていきましょう!!」
「えぇ~~」と悲鳴が。笑
Published by 井
「大逆転」のススメ Vol.9
「街はボランティアだらけ」
街に出れば、ボランティアにたくさん出会える。
「雨が降ってきたよ」
「おばあちゃん、あっちに歩いて行ったわよ」
「これ食べない?」
「今日のお昼は何を食べるんだい」
「暑いねー」
「こんにちは」
「こもれびのお婆ちゃんだ」など。
街に出ると、婆さんたちはたくさんの人に声をかけられる。
商店の人からは、「残り物だけどもって帰って食べて」とおかずをもらったり、豆腐を買えばうす揚げがサービスでついてきたり。
他人同士が声をかけあい、助け合いながら生きるのが人の世であり、婆さんたちは、まさに人の世を生きている。
この業界で語られるようなボランティアの活用なんて、薄っぺらでちっぽけな話である。
「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 P141~142より抜粋 (中央法規出版)
決してボランティアを否定しているものではない。
定期的だったり、計画的な施設の中に取り込むボランティアもあるが、「~したい」ボランティアさんと「~してほしい」施設側の互いの合意の基で行われるもの以外にもたくさん「ボランティア」的な位置づけの自然で普通の関わりが街にはあくさんあり、それを大切に生きていくということを私たちは体感している。
決して「大逆転~」の中で登場するホームに起こる特別なものではなく、私たちの支援次第で日本中どこでも同じ風景が見られるということを日々体感している。
買い物の道中で。
買い物先で。
市場内で地域の方々から差し入れを頂いたり。
近所の方々のお見送りがあったり。
買い物途中での出逢いがあったり。
子供達の安全を気遣うことがあったり。
散歩途中で声をかけてくれたり。
公園のベンチに座り共にくつろいだり。
近所の方も一緒に散歩したり。
こんな出逢いや交流は計画的に行われるものではなく、たまたまそこに居合わせた地域の中で暮らす者同士の響き合わせであるが、これこそが「地域と繋がって生きる」という私たちの施設の方針の柱の一つを具現化している姿であり、その出逢いそのものが「街はボランティアだらけ」を実証していることにほかならないということであり、とても素敵でありがたいことであると感謝するとともに、私たち職員も入居者・利用者も地域のために役にたてることを今後も模索していかなければと思っています。
ここに到達するには、「自分のことは自分で行えるように」という施設方針の延長線に「食」の獲得があり、それをするために自分達で買い出しに午前も午後も出なくてはならないという必然行動の成せる技であるということです。
そして、その行動の中で「人として生きる」実感を入居者・利用者は感じていると確信しています。
入居者・利用者の有する能力を活用・支援することにより、どこでも同じ姿が見られることは明らかであり、今後も地域の中で、地域と共に暮らしを送れるように尽力していきたいと思います。
Published by 井
「大逆転」のススメ Vol 8
「持込み型から飛び出し型へ」
理美容師に来てもらう。
カラオケの機材を借りてくる。
習字を教えてくれる人に来てもらう。
寿司屋さんに来てにぎってもらう。
祭りをやる・・・・・。
往々にして、施設では何かと施設に持ち込むことを考えるものだ。
しかし大切なことは「来てもらう」ことから出発することではない。
理美容院に行こう、カラオケボックスに歌いに行こう、習字を習いに行こう、寿司屋に食べに行こう、祭りに出かけよう、
こうした「行こう」を実現するための方策をまず探すことである。
ただでさえ高齢や痴呆という状態になり、社会から遠ざかっている婆さんたちである。
社会からかけ離れて「手厚く」すればするほど、社会的な生き物である人間としての姿を失うばかりである。
施設に住んでいても、一般社会に存在する人と同じであることが基本だ。
「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 中央法規出版 P127より抜粋
施設に持ち込むのではなく、必要なものを調達しに街へ繰り出す。。。
食材を調達しに、毎日毎日往復1.5㎞の市場へ午前・午後2回の買い出しに行く。
お寿司屋さんに食べに行く。
近所や行きつけの美容室へカットに行く。
カラオケボックスにバスで行く。
イオンにぶらつきに行く。
馴染みの喫茶店に行く。
誕生日ケーキを予約し取りに行く。
紅葉を見に行く。
自宅へ衣替えの服を取りに行く。
お見舞いに行く。
手紙を出しに行く。
100円均一へ日用品を買いに行く。
役所へ手続きに行く。
かかりつけの病院へ行く。
公園へ散歩に行く。
近所のグループホームへ遊びに行く。
人を見送りに名古屋駅へ行く。
本を買いに行く。
服を買いに行く。
おやつを買いに行く。
お参りをしに神社に行く。
祭り・夜祭に行く。
「行く」「行く」「行く」・・・
僕らは、認知症になっても障害を持っても、社会的な生き物である人間としての姿を取り戻せるように、今後も「行き」続けます。
1ユニットあたり、6.0人の職員配置で助け合い、工夫しながら行ける限り行き続けます。
そろそろ、なばなの里へ、イルミネーションを見に行かねば。。。
Published by 井
「大逆転」のススメ Vol 7.2
「大逆転」のススメ Vol7.1の続きです。
【療法まみれの館で療法漬け】 大逆転の痴呆ケア P89より一部抜粋
・・支援は、痴呆という状態になってもそれまでに築き上げてきた「生活の姿」をどう維持していくか、そのために必要なことは何かを考えていくことから始まるのであって、生活(行為)を奪って療法まみれの館で療法先にありきの療法漬けにすることではない。
【回想だけじゃつまらない】 大逆転の痴呆ケア P89より一部抜粋
・・たとえ痴呆という状態であっても今を生きている人であり、決して過去だけで生きているわけではないことを忘れてはならない。
・・僕らは、今を豊かに生きるために婆さんの中に秘められた「今を感じる」「今を表現できる」能力に依拠する技をもっと身につけるべきであり、”今療法”を磨くことである。
今療法は、だれもが駆使している技であり、だれもが展開できる手立てでもある。
【街は「療法」の宝】 大逆転の痴呆ケア P91より一部抜粋
・・街には宝くじのようなハズレはなく、出かければ必ず宝物に出会う。
こんなステキな宝を活用しないのは、婆さんたちを人として扱っていない証である。
婆さんたちを街から遠く離れた箱の中に囲い、その箱の中で「なんとか療法」だなんてとんでもない。
1日8時間だけ囲われた箱の中で時間を過ごす職員だって、街という宝の山で自分自身を取り戻しているではないか。
一方、婆さんたちにはそれを許さず、プログラム・療法漬けにしてしまう。
そのことに何の疑問ももたない専門職の「専門」とは何かと、問うてみたいものだ。
婆さんたちが今を生きる人として、居間でも街でもどこででも、そのもてる力を存分に発揮して主体的に生きていけるように支援していきたいものだ。
以上、「大逆転の痴呆ケア」文中のあちらこちらから部分抜粋なので、機会があれば全体や前後の文と合わせて読んで頂きたいと思いますが、和田の語る「療法」の捉え方、活用方法は「そうだよなぁ~」といったことが感じられるのではないでしょうか。
誤解してほしくないのは、決して「療法」を否定的に捉えているのではないということです。
まずは自分の力を使って生きているという体感を増やすこと、生活行為を自分の力で行えるようにすることを丁寧に丁寧に積み上げることを大切にする中で、専門のアプローチである「療法」も加えてみるのが、よりよい暮らしに繋がるのではないかということです。
「療法」は行うことが目的ではなく、そのことを通じて、豊かな生活へつなげるためのアプローチの一つであるということを理解して、活用していく視点が大切なのではないでしょうか・・・
話は変わりますが、昨日は地元の小牧市の認知症支え合いネットワーク会合に参加し、今月29日に行われる模擬徘徊訓練の打合せに参加、本日は、古巣の江南市の模擬徘徊訓練に参加してきました。
多くの関係者の協力のもと、賑やかに実施されました。
お隣の扶桑町の行政職員さんや、川を越えた向こう側の各務原市の地域包括の職員さんも、それぞれの地域で同様の訓練を実施し、認知症対策に関する啓蒙活動を展開する準備として参加されました。
名古屋市も10月から全域で「はいかい高齢者おかえり支援事業」という24時間365日の捜索ネットワークが開始されました。
ここまでに時間はかかったのかも知れませんが、いよいよという感じがしますね★★
行政の職員さんにもお願いしたのですが、行政単位のみの実施で終わるのではなく、近隣の行政とも連携を図り、皆でネットワークを確立していくことが大切になってきますので、どんどん情報交換や共同開催を目指してつながっていきましょうとお願いしました。
まずは、メシ会で仲間を増やしていくことが大切かも知れませんね。
私達もそうですが、ふらっとお出かけされる時には、自分の市町村内で完結するとは限らないですものね。
前回の広島の研修に呼ばれた時の帰りに乗車した新幹線「さくら」です。
なんか普通指定席なのに、グリーン車みたいでした★
喫煙所もステキ(笑)
Published by 井
「大逆転」のススメ Vol 7.1
【療法・・・それはオプション】 ~生活療法ではない~
よく「和田さんの実践は”生活療法”ですか」と訊かれるが、「生活療法ではない」と答えている。
なぜなら、生活は生活であり、療法というのは生活を支えるオプションにすぎないからである。
療法などというものでくるまれた生活があるとしたら、それがどんなものか見てみたいものだ。
療法とは、ある特定の疾患とか状態に対して、ある目的をもって、ある効果・結果を得るために行うことである。
つまり、通常の人間の状態とは違うと考えられた「特別な状態」になったときに、ある獲得目標に対する効果(治療的効果)を目的として、特別な手法や技法を使って行う手立てともいえる。
それは、「特別な状態」を診断・治療する医療も含めて、人が生きていくことを支援する”オプション”行為である。
これまで療法と名のつくものといえば、「理学療法」「作業療法」「言語療法」「音楽療法」「運動療法」「食事療法」くらいだったが、気がつけば、「園芸療法」「アニマル療法」「芸術療法」「計算療法」など、さまざま療法たちが出現している。
また「回想法」というのもある。
確かに、こうした療法が、婆さんの能力の維持・回復・引き上げ・拡大につながれば結構なことである。
また、そのことによって、自分の能力を発揮して主体的に生活を営むこと(生きること)ができるようになればもっと望ましい。
そうなれば、こういった手立ても素敵なオプション活用術だといえるが、オプションがメインになってしまうと本末転倒になりかねない。
「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 中央法規出版 P85~抜粋
このページの後にも大切な考え方が多数述べられているので、次回(Vol7.2)につなげたいと思います。
10月20、21日に広島で行われた第10回日本通所ケア研究大会・第8回認知症ケア研修会(合同開催)の一般演題発表(認知症ケア部門)の座長と、その後のセミナーの講師として参加させて頂いたのですが、その中でも「療法」といった名が多く出ていました。
基本的に通所系事業所からの発表ですので、オプション的な位置付けの「療法」を取り入れるのはOKだと思います。
実施した効果も確認できましたので、OKだと思います。皆さん素晴らしかったです★
ただ、あくまでもオプションであり、私達の仕事は「有する能力に応じ自立した日常生活を送る」ことを目指すという考えが根底に根付いているのかまで確認する時間がなかったので、この場と、和田さんの「大逆転~」のフレーズをお借りして書かせて頂きました。
長くなるので、Vol7.2へ続きます。
それにしても参加者は全体で1000名!だとか。
大会の大成功を祈りながら1日目終了後、懇親会の途中で名古屋へ戻りました。次の日夜勤だったので・・スミマセン。
それにしても、大会主催者側のスタッフ・全国からの参加者の皆様、素敵な方々ばかりでした☆
大会中の写真は撮り忘れたので、帰りの道中の写真くらいは次回にUPします。
新幹線「さくら」良かったですよ~(笑)
Published by 井
「大逆転」のススメ Vol.6
★ばあさんず「おそうじ」★
~掃除は宝の山~
身体酷使作業、だから宝
汚れたものがきれいになっていく達成感は、だれもが感じたことがあるだろう。
ものも言えないほどの肉体疲労に心地よさを感じた人もいるはず。
しかも、だれのためでもなく、自分の、自分たちのために行う。
日常生活の中で掃除ほど面倒な作業はないかもしれない。
掃除が大好きな人にとっては何でもないことだろうが、日常生活においては、他の家政行為ではみられない身体酷使作業でもある。
地を這い、天を見上げ、中途半端な体位を必要とするがゆえに、身体にとっては宝になりえるのだ。
多くの施設で磨けば輝きのあるこの原石=掃除に見向きもしないのは、「もったいない」の一言である。
「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 中央法規出版 P32より一部抜粋
和田の言うとおり、滝子における入居者さん達の掃除の場面は、体や脳にとって宝の山である。
みよ、この体位。
「あらあら、こんなところも・・・」
拭く、掃く、洗う、片づける時に、体の関節、筋肉、バランス、注意力等々を必要とする掃除の場面である。
腕を伸ばし高いところもスイスイ~
自分で気づいて掃除を始める方もいれば、こちらで仕掛けをしないと始めない方もいたりではありますが、掃除はその方々の有する能力を発揮する絶好の機会となる。
「こっちは私が・・・そっちは・・・」
共同生活の人間関係を繋ぐ場面でもあります。
共通の目的に向かって力を合わせていきます。
テーブルも移動するために吊ります。重い椅子も上げ下げします。
もちろん、できないことを無理やりに行ってもらっている訳ではありません。 その方々の「有する能力」を発揮して頂いているだけです。
時には仕掛けもします。
わざとオーバーリアクションで、「こんなに汚れて~」と自らが掃除を始めることも必要。
時には、入居者の方に見えないように、バケツの水をわざと振りまいて「あらら、びしょびしょになってしまったぁ」「皆さん助けて~」と雑巾を差し出す。
視覚的にゴミや水を見えるようにしたり、注意を引きつけるように声や動きを見せる。
あとは道具があれば、大切な身体酷使作業の始まりです。
そして掃除終了後には達成感と、水分を取り込む機会となります。
「大逆転の痴呆ケア」P33より。↓↓
「お年寄りにそんなむごいことをさせるなんて」と、見学者から激励(?)の言葉をもらうことがある。
確かに婆さんや職員以外の人目にはそう映るかもしれない。けれども・・・(興味のある方は本で続きを) とても大切で好きなフレーズがあります。。。
もともと、能力も知恵もある方々ですからね。
「米のとぎ汁で、下洗いするわね」
なんとエコな。。。
洗濯バサミをたくさんくっつけて・・・
「ちゃんとやらなきゃね」
でも、机の上に椅子がそのまま・・・
このうような機会をたくさん作らないといけませんね★
Published by 井