「大逆転」のススメ Vol.5
食材獲得は食の戦 ~シーン・ドキドキ・ワクワク~
「では、買い物に行きましょうか」 「・・・・・」
とたんに静まり返ったので、次にしおらしく声をかけてみた。 「買い物に行ってくださる方は・・・・・・。どなたか一緒に行ってもらえますか」
婆さんたちは互いに顔を見合わしている。今度は強気にひとこと。
「じゃ、今夜は食べるのをやめますか」 「・・・・・」
沈黙する婆さんたちに、僕もだまっていると、ひとりが口を開いた。
「誰も行かないんですかー。じゃあ、わたしが行きます」 「それじゃあわたしも行きますか。どれ、散歩がてらみんなで行こうか」
やっと重い腰が上がった。外は雨降り、もうすっかり夕暮れである。 昼食と夕食時は、そのたび買い物に出かけるが、そんな話をすると「こもれびは商店が近いからできるのよ」と言われる。 確かに住宅街の中心に位置し、近隣には商店や飲食店、公園、医療機関など、婆さんたちが歩いていける距離に必要なものはほとんどあり、生活環境に恵まれている。 しかし、生活環境によって婆さんたちが生きていくことを支援する手立ての基本が変わるわけではない。 生活環境に恵まれていればそれを活用するし、恵まれていなければ知恵を使うだけのことである。 人里離れた場所に位置していれば、駅やバス亭まで車で行ってそこから買い物に出かければいい。 それはそれで毎日が「ピクニック」の連続であり、恵みがないことが逆に恵みに変わる。
食材の獲得行動は、生活環境に恵まれているから行うわけでもなければ、恵まれていないから行かないというものでもない。 生きていくために欠かすことができないからであって、人間として当たり前のこととして行っているにすぎないのだ。
「大逆転の痴呆ケア」和田行男著 中央法規出版 P19~20より抜粋
滝子通一丁目福祉施設においても、昼と夕の食材買い出しは同じ光景が見受けられる。
「さぁ、買い出しに行きますか」職員
「・・・」入居者
「大逆転の~」のような問いを投げかける。
「じゃ、食事なしにしますか」職員
この後が、本のようにはいかないことが多い。泣
「足が痛いから無理です」入居者
「あなた(職員)が行けばいいじゃないの」入居者
「そんなサービスでは、客が来なくなるわよ」入居者
といった具合。 なかなかのツワモノぞろいである。
現状はそこをなんとかお願いしたりするが、それでも無理な場合は、頼みやすいいつも方が行くことが多くなる。
まだまだ「行きますか」といった風潮にもっていく「風」を吹かすことができていないことが多い。
本日は早朝から「風」を吹かせるべく6時前よりフロア入り。
夜勤明けのスタッフと共に、起床→洗面→布団干し→部屋の掃除と朝を組み立てるべく「風」を吹かす。
今日も朝から暑い。
1時間ほど、朝の生活行動を行うと、皆汗が噴き出す。
「今日の朝はモーニングでも行きますか」職員
これは名古屋市民にとっては、響く声かけ。笑
朝の活動の後に、2階入居者全員で近所の喫茶店へ。
「ジェネレーション」のマスターも気をきかせてBGMは懐メロが流れる。
モーニングしながら、口ずさむ方、歌手のことを語る方、皆話が弾み豊かな食の場面のできあがり★
50分程滞在し、施設へ戻る。
それにしても朝から暑い。
そして施設に戻ってお茶を一服。
その後も生活行為をしながら、またまたやってきました昼食の食材の買い出しの場面。
「どなたか買い出し行って頂けますか?」職員
内心、「今日は朝から動いているので、ぐったりで誰も行かないのではないか・・・」
と予想していましたが・・・
さっと、いつも行きたがらない方が「私行きますわ」と。
あれ!? 珍しい(笑)
朝から活動の「風」を吹かせた恩恵であろうか。
気持ちが動いていると、何事も動き出すのか。
そんなこんなで買い出しへ行きました。
「よいしょっと」
体操なんかなくても、体を動かし、伸ばせる場面は生活行為の中にいくらでもある。
自分が生きていくために欠かすことのできない「食」の獲得。
それは人として当たり前の姿であり、障害があっても認知症があってもその姿を支援していくために今後も「風」を吹かせ、「心」と「体」を使っていきたいと思います。
モーニング帰りの話に戻りますが、鍵を閉めて全員で出たので帰ってみると・・・
「鍵がかかってて入れないわよ」
「締め出されたわ」
「インターホン押してみな」
すっかりここの住民になっているようだ。
Published by 井
「大逆転」のススメ Vol.4
「不平・不満はステキな表現」~何で私ばっかり~
「これ全部、私ひとりで洗うんですか」安部さんが怒り出した・
「ええ、お願いします。それとすみませんが、洗剤を使って洗ってほしいのですが」
「これをですか!」
ますます口調が強い。皿を洗う手つきまで怒っている。
「何で、私一人でやらなきゃなんないの。私は皿洗いじゃないですよ」
外で他の入居者が洗濯物を干していたので、安部さんにそれを見てもらうために勝手口を開ける。
「安部さん、こっちに来てあれを見て下さいよ」
「何なの?」
「あそこで他の方は洗濯物を干してくださっているんですよ。安部さんの洗濯物も一緒に干してくださっていましたよ」
「そんなはずはありません。私は今朝ここに来たばかりで、洗濯物を出すはずがありませんから」
「・・・・・・」
ごもっとも。
「自己主張がなくなったら、さあたいへん」
人間は「おかしい」と思っても、それを口に出せないことが多い。
それが原因で体調を崩したり病気になることだってある。
そう考えれば、ストレートにそれを口に出せる婆さんたちにはすばらしい力が備わっているともいえる。
痴呆という状態は、さまざまな関係性を自分自身の力で解決していくことが難しくなってくる。
その意味で、思ったこと、感じたことをストレートに表現できる「環境」はとても大切だ。
協調性がない、わがまま、相性が悪い、自己主張が強すぎる、なんて言う前に、笑う、怒る、悲しむなどの感情表現が内に籠ってしまった人間を思い描いてみてはどうか。
喧嘩している姿がとってもステキに見えてくるから。
「大逆転の痴呆ケア」和田 行男著 中央法規出版 P6~8より抜粋
福祉施設では、「笑顔で」「ゆったり」といった高齢者像を求めがちであるが、人と人が出会い、過ごす時間が増え、距離が近くなればなるほど、仲良しもできれば相性の悪さも出てくるのが「普通」ではないか。
逆に、対立や不満や喧嘩がないとしたら、それはどのような「環境」「方針」なのだろうか?
私達も、幼少期から今日までの集団生活の中で「笑い」もあれば「怒り」もあり、「哀しみ」もあれば「楽しみ」もあった「普通」に経験してきた「喜怒哀楽」
その中でどうも「怒る」ことや「悲しみ」に対して拒否反応があったり、排除傾向だったりしないだろうか?
滝子通一丁目福祉施設でも、日々、「愚痴」「不満」「ねたみ」「怒り」そして時々「涙」。
そんな感情表出があってこその、「笑顔」「喜び」「楽しみ」の場面が輝くのではないか。
「喧嘩」している姿がステキだと感じる瞬間が自分に中に出てきたら、あなたも和田行男を筆頭とする「婆さんズ解放運動」の戦士の仲間入りの証かも知れませんね。。。
(もちろん感情は残っていきますし、後々の人間関係に悪影響が出ることもあるので、喧嘩になった場合や、喧嘩になる前の手だてをする必要はあります)
「あらよっと。反対側から失礼~」
「ちょっと! お~ちゃくいねぇ」
Published by 井
「大逆転」のススメ Vol.3
「平等・・・降りいりがちな平等感」~必要にもとづいた平等感~
介護保険制度は、要介護度が同じであれば利用料金は同じである。
要介護認定の評価はともかく、同じ要介護2だとしても婆さんの状態はひとりひとり違い、手助け(介護)の量も質も異なる。
同じ要介護2で利用料金が同じであったとしても、必要な手助けは人によって全く異なる。
必要に応じた手助けを行うのが僕らの役割だと考えると「必要なこと」を「必要に応じて行う」ということが平等の価値基準になる。
とかく換金価値に惑わされると、千円の天丼と五百円のかけ蕎麦では不平等だと考えてしまう。
だが、かけ蕎麦を食べたい人にしてみれば、かけ蕎麦は天丼よりもよっぽど価値が高いという見方ができれば、何てことはない。
人が必要とするものは人によっていろいろであり、だれにもそのいろいろがあってよいという価値基準が平等の基本である。
(大逆転の痴呆ケア 和田行男著 中央法規出版 P93~94より抜粋)
まだ、当施設での食事は共通メニューが主である。
朝は「パン」か「ごはん」か、その「両方」であったり、「魚」か「肉」のどちらかくらいの選択肢しかできていない。
あと、ごはんや汁物のお代りは自由といった「量」の違いである。
今後は、主体的に個人個人が食べたい物を決め、食材を買い出し、調理、食すことができるように支援していきたいですねぇ~。
まだまだ、「みんな一緒」という風が流れている今日この頃です。
具体的な食べ物が数多く並んでいて、好きなものを選べるのっていいですね。
でも・・みな同じものになってしまうんですよねぇ・・笑
Published by 井
「大逆転」のススメ vol.2
「ひそひそばなしに密かな手だて」
洗面所の前で、3人の婆さんが、ひそひそ話しに花を咲かせている。
「あの先生は、うるさくて細かいのよ」
「そうなの?」
話し手は姉御肌の京子さん(仮名)。
聞き手には強い人には歯向かわない照子さんと和子さん。
あの先生とは僕のことであり、直接的には歯向かえないため、ひそひそ話でうっ積を晴らしているようだ。
ステキなことである。
しかし、その話も。やがてまったく違った方向へと展開し始めた。
「敏子さんが、私の下着を盗っていくのよ」
「あら、いやだね。そんなことをする人が一緒にいるの」
「そうよ。私の下着やら服に自分の名前を書き込んで・・・」
「いやだねー」
このままにしておくと話の内容は忘れても「そんなことをする人が一緒にいる」という感情は残ってしまいかねないため、ここで僕らが出動する。
「補い・埋めあい・潰しあい」
~中略~
京子さんは、他人のものも自分のものと思い込み、そこに本当の持ち主の名前が書いてあると「盗られた」となる。
照子さんと和子さんは、「財布がない、服がない」と自分でしまい込んでは忘れてしまい、「どっかへやっちゃた」と訴える程度であったが、京子さんと親しくなり話し込む時間が増えるにつけ、「私の財布をだれかがもっていった」「盗まれた」と言うようになる。
そのため僕らが出動して、京子さんと2人きりで居室にこもったり、隣同士で座って敏子さんのことをあれこれ言わないようにするなど、人間関係が深まらないように手立てをとることがある。
それがいいのか悪いのかはわからないが、照子さんも和子さんも、京子さんがいなければ、敏子さんと一緒にいい時間を過ごすことができるのである。
一口で支援といっても、その方策はとても語りつくせないし、単純にアセスメントできるものででもない。
生きるのを支援するのは難しいが、人が群れることによる可能性はどっちに転んでも無限であり、これがたまらないのだ。
「大逆転の痴呆ケア」和田行男著P49,50より抜粋
ひそひそ話に花が咲く★
「あの人はいつもやらないのよ・・」
共同生活を支援する形態のグループホームでは、入居者間の人間関係をどう整えるのかで、その方向性が変わってくる。
和田さんが言うように、自分で関係性を調節することが難しい痴呆(認知症)という状態にあると群れはおさまりがつかなくなる。
そこで僕らの「出動」が必要になるということです。それも仕事です。
滝子ではまだまだ「出動」できていないので、入居者様の群れの方向性はその中のボス任せ×××
「出動」せず、関係性を調整することが仕事だと理解していないと、「入居者同士の関係が悪くて困る」というコメントが飛び出すことになってしまいます。
これは仕事ができていない自分をアピールしているということであり、専門職としてはどうなのか?ということではないでしょうか。
そんな簡単に人間関係を調整できる訳ではないが、上記のことを理解して、一生懸命あの手この手で実践を続けていくことが大切です。
そろそろ「滝子通一丁目福祉施設」も「出動」の機会を増やしていかなければなりません。
悪戦苦闘の状況はまたそのうちに。
これはひそひそ話ではなく
「豊な時間」♪
「大逆転」のススメ vol.1
朝礼で申し送りをした後に、滝子通一丁目福祉施設の目指すべき姿の確認に為に、波の女役員「和田行男」著書のベストセラー「大逆転の痴呆ケア」中央法規の中の一段落分を読み合わせて、現在の入居者やスタッフの動きの振り返り、波長合わせを行っている。
今週の題目は77ページ参照です。
「生きるとは自分自身が主体である」
自分とは、「自分自身の能力」である(広辞苑より)。
また、生活とは「生きること」であり、「生きる」の主体は自分である。
理屈っぽい話だが、つまり「自分自身の能力を発揮して生きること」が自分の生活であり、自分の生活が自分自身の能力でままならなくなったときに支援を必要とする、ということになるのではないか。
支援する側が「お年寄りに××させるなんて、しのびない」という価値観をもつこと自体が、すでに年寄りを人としてとらえてない証といえる。
そしてそれは、痴呆という状態や要介護状態にある人は人にあらず、「特殊な人」というレッテルを貼っていることのあらわれである。
僕らの専門性は、痴呆という状態にある婆さんたちが、その能力に応じて生活を主体的に営むことができるように支援することにあり、決して支援する側の価値基準に合わせて生かすものではない。
自分の能力に応じて自立的に生きている姿は「人が生きる姿」であり、一方的にしてもらっているばかりでは、人が生きる姿から遠くへ離れるばかりである。
~和田行男著 大逆転の痴呆ケア P77 より抜粋~
この本に書かれれいることは約9年前に書かれたことであるが、果たして支援の在り方は変わっているのであろうか? 私達の仕事の軸になる大切な段落である。
自分の部屋は自分で・・
共有スペースは協力し合って・・
それにしても素晴らしい体位・バランス☆
Published by 井