「インプット」「アウトプット」 (後)
(前回の続き)
滝子には要介護5で、家族でさえ「何も分からなくなっている」と表現されていた方がみえます。
確かに自分の意志を言葉で表現する事ができず、会話もなりたちません。
今回の区分に当てはめれば「後期」という事になると思います。
でもこの方に言葉だけでは伝わりにくいので、非言語のジェスチャーも大切に、シンプルに動作をお伝えすると・・
人参の皮をむくことができ・・
鏡で髪を整えたり、歯をみがいたり・・
洗い物をされたり・・
畳にあがる時には靴を脱ぎ、整理整頓をはじめられ・・
といった生活行為をされています。
もちろん上記の行為は何回かアプローチしないとできませんが、そのような様子から分かるのは、
「何も分からない」訳けではないし、
「自分」が分からなくなっている訳でもなさそうです。
「何も分からない」「できない」と見て、決め付けてしまえば、
「何もさせない」「やらせない」になってしまい、
その先に、認知症「後期」「重度」に「周りの人が追いやってしまう」事になってしまいます。
記憶の障害が進んでも、その方の「自分」は、なくならないのではないでしょうか。
確かにアウトプットとしての「行動や表現」は的外れや、場違いや、タイミングが異なったりして「とんちんかん」に見えます。
しかしそれは、自分を表現する脳の機能が壊れているので、うまく話せない、動けない、反応できないという事 なのかもしれません。
認知症は進行すると、「アウトプット」が苦手になったり、うまくできなくなるのだと思うのです。
でもそんな中でも、「自分」は存在しており、「インプット」能力はしっかり残っているのだと思います。
「インプット」とは、周りの人が本人に対して、「言っている事」「思っている事」「表現している事」や、本人の目に写る「環境的要素」などが含まれます。
私達、関わる側の「思い」「想い」「表情」「しぐさ」「雰囲気」「言葉」「人間性」などが本人さんに情報として「インプット」されていくのです。
そう捉えると、「アウトプット」としての正しい反応、いい反応は難しくなっても、
「インプット」に対する、働きかけはしっかりしなくてはと思うのです。
「アウトプット」はとんちんかんでも、「インプット」はしかっりされている。
この捉え方を大切に関わりたいものです。
滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治