「ここはどこ?」

Published by i

IMG_1493

写真は、グループホーム入居者が自宅宿泊した時のものです。

 

遠方に暮らす娘夫婦家族が、名古屋に来られ、

住み慣れた?自宅へ入居者さんを迎え入れ、1泊されたのですが、

なかなか順調とはいえません。

「ここはどこ?」

「あなた(孫)は誰?」

「孫はまだ小さいはずよ」

しまいには、

「私に主人なんかいません!」

「私は自分で働いたお金で暮らしているのよ」

等々、どんどん昔の記憶へ戻っていってしまっていました。

 

それに対して娘夫婦家族は、一生懸命過去の写真を見せたりしながら、

「ほら、お母さん孫を抱いているでしょ」

「私が結婚する時にお母さんこう言ってたよね」

一生懸命「過去の事実」を伝え、なんとか「記憶」や「納得」を引っ張り出す作戦に出たそうですが、

そこは玉砕だったようです。

 

途中から合流した後、「私達の事実」と「今の本人の頭の中の事実」は、

イコールにならない事をお伝えさせて頂き、

「ご本人の世界に合わせていく事」

「そこにいる意味を感じれるような行為を引き出す事」

が大切ですと、お伝えさせて頂きました。

 

 

住み慣れた?の「?」は、今回の本人さんにとっての視点で、

記憶障害があり、理解力や判断力が落ちている中では、

住み慣れていたはずの自宅も、「?」がつく事になってしまいがちです。

 

ここしばらくの間は、滝子のグループホームで、

暮らしている(自分の力を使って、買い物、食べる、寝る、風呂入るの繰り返し)訳ですので、

「自宅はここではない」と「脳」で分かっていても、

「体」が滝子で「生きている実感の連続」を感じている訳です。

その「主体性」というものが、その場所での「存在価値」を産み、

「自分の力を使って生きる」場所が、自宅でなかったとしても、

「今暮らしている場所」「そこにいる意味がある場所」と認知される事はよくある事です。

 

「脳」と「体」が意味をもって「一致」すると、とても分かりやすい、納得へつながるのですが、

そこに「記憶障害」「理解力」「判断力」「見当識」等の脳の力が衰えれば、

「実際の家」であっても、帰ったとしても「家でない!」という事になってしまう事があるでしょう。

 

病気により、脳の力が衰えていく先には、

「有する能力に応じ自立した日常生活を営む場所」

が自宅でなかったとしても、そこにいる意味を感じる事でしょうし、

体感的に、自分の力を使って生きる場所がとても大切なのだと、僕等は実践の中で感じています。

 

自宅を覚えている・忘れないことは大切な事ですが、

「記憶の中の世界にひっぱられながらこれから生きていく」

よりかは、

「今とこれからを自分の力を使って生きていく」

事に理解と力を注いでいけたらと思います~。

 

 

滝子通一丁目福祉施設施設長 井 真治

 

 

 

 

 

 

 

2017年11月08日 Category:スタッフ日誌