「ここはどこ?」
写真は、グループホーム入居者が自宅宿泊した時のものです。
遠方に暮らす娘夫婦家族が、名古屋に来られ、
住み慣れた?自宅へ入居者さんを迎え入れ、1泊されたのですが、
なかなか順調とはいえません。
「ここはどこ?」
「あなた(孫)は誰?」
「孫はまだ小さいはずよ」
しまいには、
「私に主人なんかいません!」
「私は自分で働いたお金で暮らしているのよ」
等々、どんどん昔の記憶へ戻っていってしまっていました。
それに対して娘夫婦家族は、一生懸命過去の写真を見せたりしながら、
「ほら、お母さん孫を抱いているでしょ」
「私が結婚する時にお母さんこう言ってたよね」
一生懸命「過去の事実」を伝え、なんとか「記憶」や「納得」を引っ張り出す作戦に出たそうですが、
そこは玉砕だったようです。
途中から合流した後、「私達の事実」と「今の本人の頭の中の事実」は、
イコールにならない事をお伝えさせて頂き、
「ご本人の世界に合わせていく事」
「そこにいる意味を感じれるような行為を引き出す事」
が大切ですと、お伝えさせて頂きました。
住み慣れた?の「?」は、今回の本人さんにとっての視点で、
記憶障害があり、理解力や判断力が落ちている中では、
住み慣れていたはずの自宅も、「?」がつく事になってしまいがちです。
ここしばらくの間は、滝子のグループホームで、
暮らしている(自分の力を使って、買い物、食べる、寝る、風呂入るの繰り返し)訳ですので、
「自宅はここではない」と「脳」で分かっていても、
「体」が滝子で「生きている実感の連続」を感じている訳です。
その「主体性」というものが、その場所での「存在価値」を産み、
「自分の力を使って生きる」場所が、自宅でなかったとしても、
「今暮らしている場所」「そこにいる意味がある場所」と認知される事はよくある事です。
「脳」と「体」が意味をもって「一致」すると、とても分かりやすい、納得へつながるのですが、
そこに「記憶障害」「理解力」「判断力」「見当識」等の脳の力が衰えれば、
「実際の家」であっても、帰ったとしても「家でない!」という事になってしまう事があるでしょう。
病気により、脳の力が衰えていく先には、
「有する能力に応じ自立した日常生活を営む場所」
が自宅でなかったとしても、そこにいる意味を感じる事でしょうし、
体感的に、自分の力を使って生きる場所がとても大切なのだと、僕等は実践の中で感じています。
自宅を覚えている・忘れないことは大切な事ですが、
「記憶の中の世界にひっぱられながらこれから生きていく」
よりかは、
「今とこれからを自分の力を使って生きていく」
事に理解と力を注いでいけたらと思います~。
滝子通一丁目福祉施設施設長 井 真治