自分に寄せるか 自分が寄るか
最近の日々の中で思うことをシェアしたいと思います。
認知症、とりわけ対応が難しいとされる方に対して、
自分に寄せるか自分が寄るかということです。
たとえば食事の際に箸ではなく菜箸で食べてしまっている。
もしくは手で食べてしまっている。
この時介護職員はどうふるまうべきか。
多くの場合職員がそれ菜箸だよ、
お箸これ使ってくださいと渡したりします。
ただし最近は他の利用者の方が何か言わない、
もしくは不快な素振りを見せない限り
なるべくそれはそのまま注意して見守ることもいいのではないかと思います。
介護職員の仕事として、とんちんかん行為を是正し
できるだけ社会の一般常識の中にとどめようとすることも
大切な仕事かもしれませんが、
認知症の状態にある方に対しては、
症状がある一線を越えてしまうと
それが留めるのではなく押し込めるになってしまうと感じています。
そしてそこまで症状が進んでしまった場合は、
そのような行為を大らかにまず認めること、
職員ではなく利用者同士の反応や働きかけ、本人の行動の変化を待つことも
大切なことではないかと感じています。
認知症が受け入れられる社会にするためには2つの方法があります。
認知症の方がリハビリを続けなんとか社会での常識を保ちながら生きていくこと。
大事なことだと思います。
ただもう一つ、社会の方が認知症の方に擦り寄り
できる限り常識を押し広げて見守り支えるということ。
もしくはそのような場所を社会の中につくること。
自分が正しいと思うことを人に働きかけることは簡単です。
しかし自分が納得できなくともその人の状態、思いに寄り添い
理解し自分が寄っていくことも同じくらい大切だと思います。
そして後者の方が自分の意志の問題であり、
認知症の進行を止める、もしくは逆行させるという
とんでもない難題よりはるかに簡単なことではないかと最近思います。
認知症のとんちんかんな行動を指摘している時(ついついしてしまうものですよね)
時には自分は砂漠に水を撒いているような気になります。
しかしその指摘に変えて自分が何かのきっかけをつくり
他の利用者さんが指摘してくれたり、
皆さんが笑って受け流してくれたりすると
それは確かに次につながる力を感じることができます。
自分の世界を知ること。その対岸にあるものを捉えること。
最近ぼちぼち秋の夕暮を眺めながら
空の向こうにある素敵なオレンジ色の正体は何かとぼんやり考えたりします。
(ビールを飲んで気持ちよくなっているから?)
こちらはビールを飲んでも真剣ですねー
小規模多機能・クラブ滝子 町上貴也