言葉こ変え、意識を変える②
(前回の続き)
「離設」
辞書にも載っていませんし一般に使われていない言葉です。
ご家族の方に「お宅の○○さんが離設されました」と伝えても「はっ?」となることでしょう。
「施設を離れてどこかに行こうとされる」の略語になると思うのですが、そのような概念・表現があること自体がおかしいと気づかなければならないのだと思います。
人は自分の意思を行動に移して生きています。権利を持っています。保障されています。
たとえその意思が、脳が壊れ正しい判断ができない状況の中であったとしてもです。
それは日本国憲法の基で保障されていますし、執行されるべき基本的人権なのです。
でも、外出は危険であるのも事実です。
行方不明、交通事故、住民へ迷惑をかける等々。
ですから、生命の危機やトラブル防止をするために、施設の管理下に置かれ、少ない職員でその方の生命・身体を守るために致し方なく、行動を抑制せざるを得ない状況にあるのだと思います。
ただ、生命・身体を守るために、その方の意思を踏みにじっていいものなのか・・・
その方の意思を尊重する代わりに、生命・身体の危険を容認するのか・・・
これは両立することが難しい課題であると思います。
しかし難しいから安易に外出できないように行動に制限をかけるというのでは、専門職としてお粗末です。
それでは素人と変わらない対応であり、専門職としてどうなのでしょうか。
行動を抑制しなくていい方法を考え続け、あの手この手を尽くしていく姿勢が大切であり、忘れてはならないことだと思うのです。
今はやむなく行動を抑制していても、いつかは・・・
という思いと、そこに挑む姿勢が大切なのではないでしょうか。
不本意ながら認知症という状態になり、自分のことが自分で上手くできなくなって困られ、私たち専門職の前にみえるのです。
困っている方々の手助けをするべき立場にあるのが私たちなのですから。
仮に、施設から出られない、出せない事情があるとすれば、僕らにできること、僕らがすべきことは、「離設」を問題視することではなく、「離設」をしなくてもいい状況を施設内でアプローチできるかどうかということではないでしょうか。
職員が施設にいる意味を感じられるようなアプローチができていない先に「離設」をされ、挙句の果てには「エスケープ」と表現されてしまってはあまりに、ご本人に申し訳ないのではないでしょうか。エスケープとは「逃亡」であり、ほとんど犯罪者扱いですからね。
「離設」・・そのような意識・言葉を使わないようにするのと同時に、ご本人の立場・気持ちを汲んでいく中で、共感力を活かすと共に「そこにいる意味を感じられる」ようにアプローチをあの手この手で行っていくことが大切なのだと思います。
しかし、そのようなアプローチを行った上でも、外へ出ていかれることもあるでしょう。
そうであれば、そこはご本人の気持ちを汲み取り、外出に付き合えるような体制・連携が施設側に必要となるということです。
これもまた、なかなか困難なのですが・・
最初から出さない・出れない・諦めているという意識・方針があるとすれば、そこは専門職としてどうなのか?と自問自答していくことが大切なのではないでしょうか。
「私、困っているの。助けて、力になって」とお金を支払って私達の前にいらっしゃるのですから、そこは諦めずになんとか挑む姿勢を持ち続けていきたいものですね。
滝子通一丁目福祉施設 施設長 井 真治
今日もお出かけされるのですね・・
でも、そのような意思を持ち続けられる事は素敵ですね☆
階段の上り下りの機会も増えていいことです。