共考なくして共生はなし
事故が起こると心が痛む
事故でけがしてしまうとなお痛む
事故を起こさないようにするには「自己の実現」を阻めば、そう難しいことではない
「危ないから座ってて」
「危ないから施錠して」
「危ないからモノに触らせないで」
「危ないから外に出さないで」
「包丁やハサミを使うなんて危ない」
「危ないから柵をして、抑制して、動けないようにクスリを飲ませて」
危ないと思えることから遠ざければ遠ざけるほど「人として生きる姿」から離れていく
この国だけでなく先進国と言われている北欧だって
人として生きる姿から離してきた歴史をもっているし、少なくともこの国では今も刻んでいる
介護の第一義は「安全」なんだろうか?
介護保険法には「有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう」にと明記しているところをみると
圧倒的多数の人々が暮らす姿(みんな、有する能力に応じた自立した日常生活を営む姿で生きている)が目標になっていることがうかがえる
であれば、人として生きる姿から遠ざけては目的に反することになる
ここが僕らにとって頭の痛いところであり「葛藤の素」だ
滝子では建物の中で事故は起こっていないが、外出先で転倒して骨折した人が2人いる
うち一人は明らかに僕らの手落ちで起こっている。
これは完全に防げた事故で二度と起こさないための手立ては講じれる。
でももう一人の事故は・・・
幸いに二人とも復帰しており双方の「痛み」も和らいではきた
僕は「安全」は大事なことだと思ってはいるが、第一義ではないとも思っている
人の暮らしにアクシデントはつきものであると考えたうえで
アクシデントを最小限にするために最大限尽力する。
が、それも「完全」は無理だ
高齢者であればなおさらである
身体に疾病や後遺症があればなおさらである
認知症という状態にあればなおさらである
でもみんな人として生きていくことを願っているのではないか
人として生き合う(共生)ことを前提に考えることが必要で
要介護状態になった人に
「もう人としての暮らしをあきらめなさい」
では何のために生活支援の専門職がいるのかわからなくなる
NHK総合テレビ「プロフェッショナル」を見ていただき
一緒に考えてもらえればと思う。